せきたか通信 No.4(2/4)

その3 交通事故に遭いました
『貴重な体験をしましたので、
スペースを割いて報告させて
頂きます。』

交通事故平成13年11月に母が「くも膜下出血」で倒れ、言語障害と右半身麻痺の症状がなかなか改善しません。埼玉県に脳梗塞を治す医者がいらっしゃると聞き、母を連れて行きました。帰宅途中、関越自動車道の月夜野インター付近、雨が降る中で右カーブを立ち上がると、中央分離帯にフロントから突っ込み、追い越し車線をふさいでいる自損車(事故車)が目に入ってきました。私は走行車線を走っており、かわすことができたのですが、自損車の中の様子までは分かりませんでした。周囲の状況から私が第一発見者であると判断できました(自損車のドライバーの証言では、私の前に数台が通過していったそうですが)ので、車を路肩に寄せ、警察に電話し、現場へ急行してもらうようにお願いして、母に「事故車を助けてくるから待っていてくれ」と言って下車し、事故車に駆け寄りました。運転手は傍らにたたずんでおり、体は大丈夫との事でした。そして、発煙筒を焚こうとした瞬間に、カーブから追い越し車線を走るトラックが現れました。

「ヤバイ」と叫んで逃げましたが、トラックのクラクションが聞こえた次の瞬間、私の体に体験した事のない強い衝撃が走りました。後の現場検証によると、トラックは時速100`で走行しており、ブレーキを踏む間もなく自損車に衝突し、自損車は中央分離帯から路肩のガードレールまで吹っ飛んでいたそうです。私はその自損車に追突され、道路に叩きつけられたと推測されています。すぐに気が付き、自分が路上に横たわっていると認識し、「このままでは後続車にひかれる」と思い、自力で路肩のガードレールの外まで避難しました。ここで力尽き、以後二日間は左手以外ほとんど動かす事ができなくなります。救急車で月夜野病院へ搬送していただき、肋骨骨折・肺挫傷・全身打撲等で全治6週間の重傷と診断され、目尻も数針縫いました。幸いな事に、この事故での人的被害は私一人で済みました。
死んでいても不思議ではなかった事故だと思います。
人生、何が起こるか分かりませんので、その時々「我が」「まま」に生きていきましょう(「我がまま」ではないですよ)。

さて、この事故は私にとって大変意義深いものとなりました。いつか私が本当に死ぬ時(今回は仮想死か)に自分の人生を振り返るのであれば、大きなターニングポイントになっているのかもしれません。

今回、親の存在を強く意識しました。
事故の瞬間、母は私の車に乗っており、大きな激突音を聞いたはずです。しかし、半身不随のため振り返る事ができず(事故現場前方の路肩に駐車していました)さぞかし心配だったことでしょう。
ベッドで点滴路肩のガードレールの外に退避し倒れている私を、後続車から降りてきてくれたであろう女性が介護してくれました。私はまず「私は大丈夫だから、早く発煙筒を焚いて」と頼み、その後「この先の長岡ナンバーの車に母が乗っている。言語障害だが、ゆっくりと話せば幾らかは理解できるので状況を説明してきて欲しい。その際、私の命に別状はない事と、警察に頼んで私の搬送される病院に車を持って来て貰うようにお願いするから、安心してそのまま乗っているように伝えて下さい」とお願いしました。後に警察から聞いた話では、私の車を移動させようと警察官が車に乗り込もうとした時、母は必死に外に出ようとしていたそうです。
病院で応急手当を終えICU(集中治療室)に移動する際(首もほとんど動きません)、視界の端に車椅子に乗る母の姿が見えました。左手と左足で車椅子をこぐ母が、ゆっくりと(本人にとっては全力だったと思いますが)近づいてきます。言葉を話せないので、涙を流しながら口を動かしていました。私は「心配ない。大丈夫」と言って、痛む右手で(右側に寄って来てくれたので)母の左手を握りました。
父が母を連れて帰った後、息子のこんな状況に出くわした母の辛さを思いやった時、「親に心配かけてはいかんな。親は子のためなら死んでくれるのだろうな。自分の命を投げ打っても、子を守りたいのだろうな」との思いが湧いてきて、私の目からも涙が流れました。

死んでいたかもしれないと思うと、自分自身の人生を振り返ってしまいます。その時に感じたのは、「人生はドラマのようなもので、登場人物の皆さん(たとえ悪役でも)には感謝しかない」ということです。テレビのドラマや映画を見て面白く感じるのは、主役がいろいろな場面に遭遇し喜怒哀楽を表現するからではないでしょうか。最初から最後まで楽しく・うまくいく話だけではなく、辛い事や困難に遭遇することでストーリーが成り立つのではないでしょうか。
そういった見方をすると、私を怒らせてくれたAさん、私を悩ませてくれたBさん、悲しませてくれたCさんも、実は「関たかし劇場」が充実する為に必要な人たちだったのです。つまり、出逢う人たち全てに感謝なのですね。
これから先の人生も、いろいろな事が起こるでしょうが、人生劇場の終わりには全て感謝に変わると分かり、力まずに生きてゆけそうです。
そして、そんな気持ちになってくると、「私は、今まで感謝の気持ちを伝えてきただろうか? いや、だいたい感謝だなんてことすら感じていなかった」ということが分かってきます。
これまで私は、人に感謝される生き方を目指してきました。それはそれで結構な事なのですが、これからは人に感謝する生き方を目指したいと思います。本当に死ぬ時に後悔しないためにも・・・・。

生きているって素晴らしい事です。
分かっていたことですが、今回はそれを感じる事ができました。「分かる」と「感じる」と「できる」の違いって大きいですよね。
人生とはなんぞや…う〜む。私は今まで、人間は「何になる(社長になるとか偉くなるという肩書きの事)」とか「何をする(何かをやり遂げる、人のためにするという事)」よりも「どう生きるか(人に優しくとか前向きにという事)」が大切だと考えてきたのですが、生きている事自体の素晴らしさを感じると、「どう生きるか」さえ重要ではないと思うようになりました。重要でないからといって、「いい加減でよい」とか「なげやりでいい」ということはありません。「いい」「加減」が必要なのです。
命は、儚くもあり力強くもあり、とても精妙なものだと思います。今この瞬間に、心臓や肺が動き、血液がめぐり、身体の全ての細胞が機能している有難さと素晴らしさ。生きている事が素晴らしいってことは、人間も含めた生き物すべてが素晴らしいってことです。世の中は生き物だらけなので、世の中も素晴らしいってことになります。「自分自身も素晴らしく、他人も世の中も素晴らしい」との認識の上で、どう生き・何をなし・何になるのかを考えた時、人生の目的が一層クリアになりました。

結局、9日間の入院と1ヶ月ほどの自宅療養で社会復帰が出来ました。
私は事故直後から「良かった、有り難い」といった感謝の気持ちが溢れ、「なんで俺だけが」とか「あの運転手がこうしていなければ」といった「悔やみ」や「恨み」の気持ちは全くありませんでした。もしかすると、そのおかげでストレスがたまらず、自然治癒力が増し、回復が早まり、後遺症もでなかったのかもしれません。